知識と情報の小径【塾編】

塾にまつわる優れたコラムや興味深いコラムを紹介する小径です。

コラム  プロデューサー:植田博樹・新井順子。  脚本:野木亜紀子。    面白い。  ただし、看過できない問題点が多々ある。うやむやにはできない、なあなあで済ませるわけにはいかない由々しき問題点。見過ごせない問題点があるから、絶賛はできません。  企画は面白い。理由として、プロデューサーの片割れが植田博樹であることが、この出来栄えに大きく関わっていることが挙げられそうな気がする。植田博樹というプロデューサーがどういう人物か。  一つには、彼が「企画力で勝負してきた人」であることが言える。古くは「ビューティフル・ライフ」「Good Luck!」「輪舞曲」「SPEC」「ATARU」といった作品をヒットさせてきたが、企画がものを言った作品が非常に多いのが特徴の人である。出演者の善し悪しを頼りにする、そういうタイプではないのだ。つまり、企画が当たれば大ヒットするが、外れれば目も当てられない惨敗を喫することもある。堀北真希の「まっしろ」などはまさにそれで、彼の負の歴史の1ページを飾ることになってしまった気の毒な作品であった。  と、上に書いたが、このドラマに限っては、植田氏のドラマというよりも、主に腕を振るっているのは新井氏のような気が今(2025年夏現在)はしている。このドラマ以降、新井氏によるドラマが次々と世に出、そのどれもが成功作となっていったからだ。    この「アンナチュラル」というドラマ、企画そのもの、テーマ自体が面白く興味がつきない。不自然死の真相を暴くというのは、ぼくの親族にも不自然な死に方をした血縁がいるので他人事ではないし、そういう人は非常に多いのではないだろうか。  そこに目をつけたところ、彼らプロデューサーの手柄というほかない。面白いものは面白いのだから、つまらなかったとは言えない。    ただし、繰り返して観ているうちに気づくのは、クライマックス場面での、あまりストイックとは言えない感情的な演出である。感情を前面に押し出して、観客に訴えている。観客の感情に訴えている。エモーショナルな演出。その演出法。成功しているか。クライマックス場面は毎回登場するが、私の見た限り、どの場面に於いても成功しているとは言えないのがこのドラマのいちばんの泣き所と言える。ここぞと演出が力を込めている場面。いずれも感情に訴えることで、物語のテーマを高らかに謳い上げているが、どのクライマックス場面も鼻持ちならない演出になってしまっているのが残念。感情的な演出が成功するのは、感情を自在にコントロールできている場合だけです。  このドラマはできているかと言えば、出来るだけ冷静に観察した結果を申し上げますと、たとえば、第1話に限らせてもらって、申し上げれば、MARSコロナウィルスによる感染(2025年現在にして思えば、2018年1月の時点で、コロナウィルスの流行を題材に据えたドラマ制作は、十分に意義のあるものになっていると思う)が認められた瞬間からの怒濤とも思える展開。感情の汪溢に任せたような、煽るような音楽がこれでもかと流れ、TVのミヤネ屋を思わす情報番組を流す。ネットの心ない書き込みを示すことでさらに煽る。高野島さんのご遺族がマスコミに叩かれる場面を流して、視聴者の怒りと同情をさらに煽る。ご遺族の謝罪の言葉を聞かせ、涙を流させ、正義感を煽るだけ煽る。でもね、あまりに感情に任せた演出は、いつしか観客に辟易の思いを派生させてしまっているのではないだろうか。MARSコロナウイルス感染者に対する叱責ではなく、非難でもなく、それを通り越して誹謗中傷になってしまっている。それを意図的に提示したのはいいが、ちょっとした言動で世論の風向きが変わる。その恐ろしさを、暴力的なほどの描写で描いている。力任せに描いている印象を感じずにはいられなかった。そのことに私は恐怖感を覚えたわけです。  視聴者はいつも感情的になってTVを見ているわけではありません。通常、平常心でドラマを観ています。あまり情緒を呷るような演出は、観客を白けさせます。液晶画面の向こうで観客が皆ぼろぼろ哭いていると思ったら大間違いです。実際私はこの「アンナチュラル」を見て、笑うことはあっても、泣いた場面は1シーンも無かったことをはっきり覚えています。この演出法。2人の担当プロデューサーには、今後の課題としてここに指摘しておきます。  登場人物を描くとき前のめりにならない。話を盛り上げるときに、感情を前面に出さないかわりにたたみかけること。冷静になるかわりにテンポの緩急を心得ること。この第一話。テンポの緩急をつけた演出だけはできていました。そこは評価できます。  だが、ここまで自分の文章を読みかえしてみて思ったのは、塚原あゆ子ディレクターの力量を、私は過小評価していたのではないか、ということ。あのエモーショナルな演出が、演出家による「意図的」なものだとしたら。ある程度、というより自分の演出力を計算づくでコントロールし、感情の横溢をコントロールしたうえでの「エモーショナルな演出」だとしたら、この演出家の恐ろしさを私は見くびっていたことになる。そんな気がしてきたのは、事実だ。「石子と羽男」では彼女の力量が存分に堪能できる話は少なかったが、この「アンナチュラル」では面白い作が幾つもあり、心ゆくまで塚原あゆ子ワールドを堪能できた。「中学聖日記」「MIU404」も同様だ。殊に「MIU404」は、野木亜紀子の脚本と塚原あゆ子の演出が稀に見る辛口な刑事ドラマを作り出していた。冷徹でダイナミックな演出は塚原氏の実力を思い知らせる出来栄えだったと言える。    事前に誰かが、石原さとみの演技を褒めていたが、確かに彼女の演技は確実に向上している。  台詞は普通だが、表情の演技はなかなか面白い。変化に富んでいる。静かな演技が大部分を占めるのに、印象に残る演じっぷりであるところが特徴的。「台詞は普通だが」と申し上げたが、普通の抑揚の台詞で、印象的な演技が出来ているわけで、これは彼女が役者として一皮も二皮も剝けたことを意味するとしか、言いようがない。  ヒロインの人間性が随所に垣間見られ、彼女を魅力的に見せる努力は十二分に実っている。飽くなき興味を感ずる面白い人物。そう思わせることに成功しているというのは、役者にとって「勝利」であり、狙いが当たったと言える。特に感銘を受けたことは確かだ。(彼女を褒めたことが一度もないぼくが褒めるのは、意外かも知れないが、褒めないわけには行かない。)  他の役者では、ゲストの山口紗弥加がいい味を出しており、物語に陰影を与えている。レギュラー陣では井浦新が強烈な存在感を発揮している。  今、三たび「アンナチュラル」の録画したものを観ているが、石原さとみとのからみをなす時の市川実日子はほんとうにおもしろい。彼女が石原さとみをかすませるほど目立つわけじゃないのは、バイプレイヤーの演技をしているからだ。存在感がないわけではない。演出のTV特有とも言える、きめのこまかいカメラワークに映し出される彼女のさまざまな演技。石原さとみとの呼吸があまりにもしっくり合っているので、一見目立たないように見えるのである。それから一人チームワークを乱す新入りを演ずる窪田正孝。理系男子で、刑事の真似事を始めたりして、どこかこの職場の仕事を勘違いしているところ。まだいい味は出ていないけれど、これから味が出てくるかもしれないと考えている。  脚本に関していえば、俯瞰してみると言われている通り、構成の妙を感ずる。物語の組み立て、展開のうまさだ。しかも真相のヒントが意外なところにあるのを、あらかじめ伏線として演出が見せているところも上手い。だがそれだけでなく、要所要所に印象的な台詞が散りばめてあり、そういうものを視聴者の心に焼きつけておきながら、後半のテンポのいい怒濤の展開になだれ込んで行くあたりも、しっかり視聴者の心を掴んで離さない上手い脚本であり演出。繰り返し見ても面白いのだから、これは本物である。    ところで。「アンナチュラル」は遺体解剖のドラマである。これらの遺体の多くは、現実的にみて死後数日経過しており、多少死臭が漂っている。腐乱死体であっても法医学者は不平を言わずに解剖せねばならない。第一話の仏は確か、死後10日経過していた。よって相当な臭いだったはずである。見かけも夢にうなされるような凄さであったろう。だが、このドラマはそういう法医学の仕事のマイナス面を一切描写していない。三澄ミコトの仕事ぶりが颯爽として見えるのはそのためである。ドラマを成功に導いたのはまさにここにあるのではないだろうか。  ここはプロデューサーの英断。いちばん称賛せねばならない点。  新井順子さん。植田博樹さん。このドラマが清々しいほどの痛快ささえ感ずるのは、こういう点での「こだわり」にあると思っています。これは脚本の手柄ではなく、演出の手柄でもなく、おそらくはそれ以前のあなた方の判断の手柄。それをここに加筆しておきます。  それと、もうひとつある。  それは野木亜紀子の脚本における、「台詞の軽さ」。それが、ともすれば深刻になりがちなドラマを、重くさせない展開にもってゆく手助けになっている。役者の配役や、演技だけでは、こうも痛快なドラマにはならなかったはずだ。野木亜紀子は精神面でしたたかな、強い人物なのだろう。精神的にブレがなく、常に平常心で人物たちを描く手腕はさすがだと思う。    だけれどね、高野島さんの最後の場所にいたい馬場さんの女心を理解できない六郎。わからないかなあ。自分の最愛のひとがだよ、最後に居た場所なのですよ。その場所にいつまでもよりそっていたいきもちってわからないかなあ。臭いかもしれない。けれどそれがなんなの? 愛するひとだったら。俺はゾンビでもいい。逢いたいと思う。そういう気持ちにならないのだったら、あんたの愛は偽物なんじゃないの?    今、ふと思った。植田博樹プロデューサーはこのドラマ、主演を石原さとみではなく、ほんとうは堀北真希でやりたかったのではないだろうか? 違いますか。そうは言ってみたが、このドラマ、石原さとみで十分成功している。堀北真希はいらない。  第一話評価Bプラス(☆☆☆☆)    第二話。「死にたがりの手紙」  第二話は一家無理心中に関する話。ミコトは練炭のエキスパートだという。幼い頃両親に練炭と睡眠薬で殺されかけた過去を持つからだ。大学時代もそのことをテーマにした論文を書いている。  今回のこの事件。一家心中ではなかった。誰一人、血縁のものがいない集団自殺。中堂が毛利刑事(大倉孝二)が自殺者であることを前提に話をしていることに、耐えかねて彼を一喝する場面。井浦新らしさが出ていたし、突然だったので凄い迫力であった。  三人は練炭による一酸化炭素中毒だったが、別の部屋に寝ていた女性だけが、凍死。この謎を解明するためにミコトたちが行動を起こした。これ以上のストーリィは控える。  今回、エモーショナルな演出は影を潜め、極力冷徹な演出を心掛けているように見えた。演出は第一話と同じ塚原あゆ子である。淡々としているところは淡々としているが、起伏あるところは音楽も駆使してダイナミックに演出する。これが塚原あゆ子の手法である。今回それが功を奏して大変面白い話になっていた。出来栄えから言うと、第九話、十話に匹敵する出来栄えであった。  脚本に関して言えば、この第二話。事件の殺人犯のネカマの男:大沼悟(栄信)にほとんどセリフらしいセリフがない。そのことが、このドラマをよりサスペンスフルに展開させることに大いに役立ったと思う。技ありの脚本であり、演出だったと思う。  UDIラボに勤める法医学解剖医の心は、一般人の精神構造と若干異なって、人間を見る目が醒めている。感情の立ち入る隙が無い。というより、痛ましい死に立ち合いつづけた結果、自分の中の感情のスイッチを切っているのだ。ただ、ミコトにこのスイッチが入る場面があった。神倉所長が話をうやむやにしようとするところを、「それでは花ちゃんのダイイング・メッセージも無視して、なかったことにするんですか」と噛みついた。その抗議はすぐに取り下げるが、ミコトもほんとうは心のうちに温かい血の通う、心優しい人間なのだとわかって、沁みた。  評価:Aマイナス(☆☆☆☆☆)    第三話。「予定外の証人」  どんどん被告に不利な状況になってゆくので、ますます面白い。こういうドラマは被告が無罪になる冤罪事件に決まっているので、石原さとみの三澄ミコトが証言の撤回を契機に被告の置かれた形勢を簡単に良くしないところが、面白かった。これは、石原というよりも、検事役の吹越満が好演だったというべきか。一旦悪くなった裁判の形勢を井浦新の証言がひっくり返すところ、日本の裁判の世界がいかに男性社会か思い知らせようとしているようだが、若干主張が弱く、歯切れが悪い。第一話とはえらい違いである。  違和感があったのは、犯行に使われたのが片刃の包丁「有尖片刃器」という点である。片刃の包丁というとまず刺身をおろすのに使う「柳刃包丁」か「出刃包丁」を連想する。菜切り包丁にも片刃のものがあり、蛸引き包丁も片刃だが、四角いので、切ることはできても人は刺せない。柳刃包丁は刃渡りが長く、幅が狭い。出刃包丁は反対に刃渡りが短く幅が広いのが普通。だが、事件に使われたとされる包丁は、そのどちらにも見えなかった。もう一つ、家庭でよくつかう三徳包丁があるが、刃渡りが短く、大きな食材はさばきにくいから、料理人はあまり使わないと思う。  普通の出刃包丁は刃渡りが短いから、脊髄を傷つけるほど深く刺し傷をつけられるかどうか疑問。劇中にもあったが、百歩ゆずって届いたと仮定しても、相当勢いをつけて刺さないと脊髄まで届かないのではないだろうか。柳刃包丁ならおそらく可能だろうが、セラミックの柳刃包丁ってあるんですかね。普通は鉄製です。  犯行に使われた包丁にいちばん形状の似ているのは、牛刀。 肉に限らず料理全般に使えます。洋食の料理人はこれを使うことが多い。僕自身日常生活で使っているのも牛刀です。通常両刃で、片刃の牛刀があるのかどうか、いま調べたら、片刃の牛刀もあるようですね。両刃のものより切れ味が鋭いと書いてありました。ドラマでは片刃の包丁が焦点になっていますが、家庭の主婦が料理に使うのに向いているのは、牛刀か三徳包丁ですが、料理をネットに公開しているような専門家なら、つかうのは牛刀だと思います。  ともかく、牛刀に片刃があるなら、私の抱いた疑問点は解決したことになります。が、真犯人が京料理の料理人なら、片刃の牛刀を使っているのは彼だということになります。西洋料理につかうのが牛刀ですが、京料理の料理人なら幾種類もの包丁をつかいわけるでしょうから、持っていても不思議はないかも知れません。    ひとつ大切なことをうっかりしていました。  料理人にとって、包丁は単なる調理の道具ではありません。すぐれた料理人は包丁をほんとうに大切に扱います。料理人のもっとも忠実な相棒であり、よい料理を生んでくれる道具なのです。それほどに大切な包丁で、人を刺すことが果たしてあるだろうか。人を刺して、刺した包丁が脊髄にでも当たれば大切な包丁が刃こぼれするかも知れない。自分の大切な包丁を一本駄目にしてもいい、そんなことを料理人が思い切るなんて、それはよほどのことです。もしそんなことがあるとしたら、その人は料理人の矜持を捨てたひとであり、その時点ですでに料理人とは呼べない。    ちょっと指摘しておきたいのは、カメラワークである。ころころとカットが変わり、退屈させないようなカメラワークと言えるかも知れないが、必要がないのではないだろうか。  とは言うものの、このドラマにおけるカメラワークは、なかなか面白い。凝っているとは言えるが、こういうカメラワークに走るのは、演出の邪道であることを自覚すべき。自覚した上で、こういうことをやっているのであれば、それなりに評価できる。ただ今回に限って言えば、物語を面白くさせることにこのカメラワークはまったく役立っていないし、効果をあげていない。以上第三話の感想。  演出:竹村謙太郎。  評価:B(☆☆☆☆)    第四話。「誰がために働く」  「お前のしたことは消えない 裁きを受けろ」  中堂にあてられた脅迫状。中堂(井浦新)は不起訴になったものの、逮捕歴がある。この中堂の話を縦糸に、ところどころに織り込んでゆく。基本的に一話完結だが、連続ドラマの要素もある。だが今回、肝心の横糸の事件が、多少情に流された。よくある過労死を扱ったが「外傷性椎骨動脈乖離」と言う死因を導き出した点が、通常の過労死事件と違うように思える点。  だが、いや待てよと思った。プロデューサーと脚本が訴えたかった点は、過労死立証のむつかしさであり、平凡に思える「死」も緻密に調べれば、どれも平凡ではない点。窪田正孝に新事実の切り込みを入れさせるところ、プロデューサーは窪田をあくまでもラボの異分子として扱っている。  ただ、過労死の真実を立証するのに人道的情緒的な「人海戦術」を使って立証するあたり、いかにもやり過ぎ。けれども恐らくプロデューサーは言いたかったのではないだろうか。「しあわせの蜂蜜ケーキ」が工場の稼働を止めて、一従業員の過労死を立証するために、全従業員が団結したところ。多少情緒的であっても社会で過労になるほど働いている全労働者を救うみちはただ一つ。「労働者の団結」あるのみ。おそらくTV局の現場でも、同じような過労の状況はあるに違いないし、みな昼も夜も関係なく働いていることを私も知っている。撮影が午前3時4時に終わるとか、撮影開始が早朝4時5時とか。    じゃあ寝る暇ないじゃん。    だが、そういうことが日常的に行われていることを、誰もが知っているし、その酷い労働条件を変えられずにいるし、変えられない。よい作品を作りたい。そのたった一つの目的のために。スタッフは団結しているのだろう。そのように考えていることが、「しあわせの蜂蜜ケーキ」の工場長のコメントによって表れていた。  工場長は言い張っていた。「過労はないし、規定以外の時間外労働もさせていない」。  けれどもTV局の労働条件の酷さも、いずれ問題になると思う。俳優も同様に早朝から深夜まで働いているわけだが、彼らは四六時中働き続けているわけではない。大方は待ち時間があり、演技の前後はセッティングの待ち時間でつぶれる。長い休み時間の間に睡眠を取ることも出来るわけだから、過労にはなりにくい。  大変なのはセッティングに追われる裏方で、それらをまとめるADなどは、年がら年中走り回っていると聞く。ストレスのたまりやすいのもやはりADが一番だろう。こういう人物が過労に倒れる。そういうドラマを作れない哀しさ。何故というに、TV局員の過労死なんてシャレにもならないし、仮に作ったとしても放送にこぎ着けるまでに多くの障害がある。多くは、プロデューサーより上の部長クラスが、「つまらない」といって企画の段階で潰してしまうだろう。  演出:塚原あゆ子。  評価:B(☆☆☆☆)    第五話。「死の報復」  中堂の恋人の死の真相。それを暴くために中堂はUDIラボにとどまっていること。彼女を殺した犯人はまだ捕まっていない。中堂は犯人を連続殺人犯だと思っている。もう少しこの事件について知りたいが、この件については小出しにされるだけで、あくまで縦糸扱い。  金魚に似た斑とは何だろう。井浦新が面白い。こういう役を演ずるにはハマりすぎるほどはまっている。キーパーソンに井浦を選んだこと。プロデューサーは間違っていない。あと、やっぱり市川実日子が脇役で光っている。  彼女が第五話でふいにつぶやく「ジムに月5万払ってる」。これが第六話のとっかかりになってゆく(こういうセリフを折り込むところ、脚本も芸が細かい)。  松重豊のおろおろするところは見たくないのが正直なところ。あと、窪田がいい味出てきた。石原さとみはエキスパートの役をやらせると、ハマる。シリアス演技も悪くない。小出しにされるこういうミコトに関する新事実が面白いのだが、あくまで本編の横糸を強調するために、目立たぬよう配置している。  今回は、ドライ・ドローニングが焦点。仏は顔面から落ちて死んだ。目撃の老人が見た、足から落ちた若い女とは誰なのか。偽装自殺。犯人は彼の幼馴染、友人だった。彼女は友人が彼女(被害者)に贈ったネックレス欲しさに彼女を死に追いやった。  問題はラストである。  視聴者が見たくない、事件の中心人物を恋人が目の前で刺した。ここは止めるべきではなかったろうか。刺すの刺されるのといったシーンは日常的にTVドラマで扱っているが、こういう「生と死」に焦点を定めたドラマでは、ただ人間が死んだだけでも視聴者の心に重いものが残る。だが脚本演出、そしてプロデューサーのいちばん言いたかったところもここだろう。この被害者が死んでいたら問題はもっと深刻だったろうが、死ななかったところは救いだ。    だが、彼女はいずれ殺されると思います。鈴木くんの恨みの思いは深いですから。彼女が死ぬまで、幾度服役しても殺しにくるはずだと思います。彼、改悛の情を示していないですから。自分に非があるとはこれっぽっちも思っていませんし。何年服役するか知りませんが、地のはてまでも彼女を追いかけて自分の思いを遂げるでしょう。彼が改心するとしたら、それはよほどのことです。天地のひっくり返るようなことが起きない限り、無いということです。  彼はそういう一途な男性です。彼はもはや心を閉ざしてしまっています。もう二度と女性を愛することもないでしょう。どうすればいいんでしょうね。彼のようなかたくなな態度をとる人間の心を開かせる方法。そんなものがこの世にあるのなら、ぼくも教わりたいです。    余談。私はニュース映像で、ポル・ポト政権下だったか、ある青年が手錠をされたまま、TVカメラの前でピストルで頭部、こめかみを撃ち抜かれ処刑、つまり殺される場面を見たことがある。撃ち抜かれた瞬間、撃たれた若者は人形のようにもんどり打って崩れ落ちた。撃った男は終始無表情。撃たれた若者は即死。  それは大友克洋がかつて劇画の扉に描いた、あの有名なニュース映像である。ああいうものを人間が見ていいのか、悪いのか。まだ答えは出ていない問題である。目の前で人が殺されるところを、あなたは見たいですか。  演出:塚原あゆ子。  評価:Bプラス(☆☆☆☆)    第六話。「友達じゃない」  UDIラボは人の生死に関わる仕事だけに、責任の重さを自覚せよ。所長に叱られる中堂と三澄。今回は例のアシッド・ジムの仲間との合コンで不審死に出くわす話である。  昨夜のことは全然覚えていない東海林。薬物のプロ、東海林(市川実日子)が合コンで薬物を飲まされた。今回はシリアスに始まるが、市川実日子が話の中心になるせいか、だんだん喜劇性を帯びてゆく。また、市川と石原の息の合い具合が最高である。刑事役の大倉孝二も軽い演技でドラマをもり立てる。仏の耳にバイタル・センサー。アシッド・ジムの仲間たちは薬物を女性に飲ませてレイプに及ぶ常習犯であることが明らかに。  だが捜査班は薬物による殺人とみて、東海林を重要参考人として事情聴取の意向。もうほとんど犯人の扱い。松重豊のおろおろ演技がこの喜劇性の強い話で、俄然生きてきた。また中堂(井浦)は東海林が殺人犯に疑われていることを煽り、喜劇は最高潮に。東海林がしょっぴかれたらどうなる。自白を強要され、逮捕に追い込まれる。そんなことになったら、UDIラボも煽りを食って吹っ飛んでしまう。本庁の刑事それも捜査一課に、殺人容疑で追われていると思い込んでいる二人(東海林・三澄)の可笑しさ。  しかしまあ、東海林が事件にからんだだけで、どうしてこう可笑しくなってしまうのか。脚本の可笑しさもあるだろうが、それ以上に市川実日子の個性が最大限に生かされている傑作シーンだとしか言いようがない。動いているのは捜査二課。つまり殺人事件の捜査ではない。そうとも知らず逃げ回る二人の可笑しさ。それに加えて松重豊のマシンガントーク。最高に可笑しかった。  ちょっと面白いカメラワークがあった。  坂本誠さん(飯尾和樹)でしたっけ。明邦大学病院に移った、臨床検査技師。中堂系にハラスメントを受けていた人ですけれど、ここの教授について、「ご遺体を開いては宇宙を感じ、切っては宇宙を感じ、臓器を取り出しては宇宙を感じ、いちいち心が遠くへ行っちゃって、一体一体の解剖に時間がかかるんだよ」とミコトたちに現況を告げる場面のカメラワークが面白く効果的。マルチカメラによる撮影だろうが、目まぐるしいカット割りがこのドラマでもっとも成功している場面だと思った。坂本誠という人物を演じている役者の演技のほのぼのとした喜劇性が最大限に生かされている。    縦糸となる糀谷夕希子殺害にからむ人物だが、いろいろと裏情報を知っているハイエナのような男が現れる。そのキーパーソン。宍戸理一というフリーのライター(北村有起哉)である。  この北村有起哉。朝ドラにも落語家団真の役で出ていたが、おかしかったのは天才と呼ばれる団吾とかいう弟弟子より彼の方が落語をやらせて上手かったこと。この「アンナチュラル」でもカギとなる人物を演じているが、ほかの役者とは格からして違っている印象。ただごとでなく上手いので驚く。(大河ドラマにも出ているが「西郷どん」では演出家にブレーキをかけられている様子で、彼らしい渋い演技は拝見することが出来ない。)本作に関しては事件の鍵を握る人物なので、バイプレイヤーの目立たぬ演技をする必要がない。よってプロデューサーも彼を存分に演じさせている。上手さでは井浦以上だろう。北村和夫の息子だそうだが、演技力では父親を上回っているようにさえ思える。(僕は昔北村和夫の「ジェルソミーナ」という舞台を観たことがある。フェリーニの「道」を舞台化したもので、ザンパノを演じていた。印象的であったが、名演というほどではなかった。)    この第六話。役者による好演が見事にドラマをもり立てており、話そのものは全ストーリィのなかでは、地味な部類の話であったが、鼻につく演出もなく、脚本・演出・演技の歯車が見事に噛み合って、テンポがよく小気味良い展開を見せ、とても面白かった。演出という点ではいちばん評価できる話のような気がする。この話では市川実日子、大倉孝二がよかった。それに石原・市川の気の合い方は見事。そして北村有起哉。べつに熱演じゃない。適度に力を抜いた肩の凝らない演技だが、上手くて怖いくらいである。  演出:竹村謙太郎。  評価:Bプラス(☆☆☆☆)    第七話。「殺人遊戯」  今回は遠隔死亡診断がテーマ。  三澄ミコトの弟のの教え子の白井一馬くんが法医学者を目指しているというが、待ち合わせをしたのにすっぽかされてしまう。そこで連絡先を教えると早速翌日メールが来た。ところがそれには或る動画のアドレスが貼ってあった。  何これ。  それは殺人の実況中継だった。死亡したYくんの死因は? それを当てないともうひとり殺すと言う。三澄はこの「殺人遊戯」のゲームに参加することになってしまう。後ろに血まみれで倒れているYくんがほんとうに死んでいるのだけはわかった。この被害者?は横山伸也という、白井くんのクラスメイトらしい。昨夜から連絡がとれない。体育備品倉庫のマットから多量の血液を発見。彼の遺体からは刺された痕のほかにずっと以前の打撲の痕が散見された。横山くんは日常的にいじめを受けていた疑いがある。彼は、殺されたのか。自殺か。    ストーリィはこれ以上書かない。    これは痛ましいいじめへの告発のドラマになっている。この話も最後に情が絡んで甘くなった。けれどもこれは制作スタッフの怒りの思いを感じた。人間らしい感情の欠片もない、冷酷かつ非人間的ないじめに相対するには感情的になってはいけないと思う。そんな態度だからつけこまれるのだ。この殺人実況生中継を行った、白井くんの想いは伝わった。だけれど、涙など流すだけ無駄。こういう厳しい現実を感動的に描きたい気持ちはわかるが、それでは甘いドラマになってしまい、真の悪とは何かを追求できずに終わってしまう。  感情的になったドラマ演出は視聴者の心を揺さぶれるか。  答えはノーだ。  心を鬼にして冷徹な演出を心がけないといけない。    わかりませんか。    この一件、いったい誰が悪いのか。いじめを行った生徒だけの罪ではない。見て見ぬふりをした教師もおかしいし、いじめられている白井くんを、周りで笑ってみていたクラスメイトの態度にも問題がある。また、横山伸也くんへのいじめに非協力的な態度で接し、担任への報告を怠り、その責任を白井くんひとりに押しつけた、学級委員の女の子にも問題はある。臆病な白井くんが仮に、担任へいじめの事実を報告したところで、うやむやにされ握りつぶされるのは見えている。つまりこれは「オリエント急行殺人事件」と同じ。全員が横山くんの死の要因づくりに加担していたと言っていい。強調すべきはそこなのではないだろうか。  戦争終結後の軍事裁判に例えて言うなら、いじめを行った連中をA級戦犯とするなら、笑ってみていたクラスメイトはB級戦犯。担任もB級戦犯。報告をしなかった学級委員長もB級戦犯。白井くんを責めたくはないが、彼にも落ち度はある。ただ、彼は自分に罪があることを認めていた。そういう点は認めてやるべき。  つまり彼らは自分が矢面(やおもて)に立たされたくないがために、自らの保身のために現実から逃げたと言っていい。このドラマでは、いじめを行った連中にまるで正義の鉄槌をくだすかのように、徹底的にこきおろしているだけで、あとの周囲の人間たちの責任の所在については明らかにしていない。その点。明示すべき点の指摘が弱い。もっとはっきり浮き彫りにさせるべきだったのではないだろうか。この話、そういういじめの元凶を指摘していないわけではないが、明確化していないのは確かなことで、いたずらに涙を流したり、いじめの被害者を言わば遠吠えさせたりして、感情的になっているだけにすぎない。    怒ったら敗けです。演出も制作スタッフも怒っているかもしれないが、視聴者はみな平常心で見ている。怒りながら観る人は、よほどの単細胞だけであって、ほとんどの視聴者は冷めた(あるいは醒めた)眼で観ています。日常、激している人物をよく見ますが、そういう輩を周りの人間は心から軽蔑しています。同情する人はほんの一握りもいない。    役者の演技に言及していなかった。  この話での石原さとみはかなりいい。  話に思わず引き込まれるのは、話の面白さもあるが、石原さとみの好演によるものが大きい。理性で制御されたかなりストイックと言える演技だ。  入れ込んだ場面。抜いた場面。自在に演じており、見れば見るほど引き込まれる熱演と言える。それと井浦新の腰の据わった演技(時に意図的に浮わついた演技をしている箇所もあるが)がそれをサポート。あと、言うべきは、市川実日子と窪田正孝の助演。市川の無邪気なくらいの軽い演技はやはりいい。そしてゲストの白井一馬くんを演じた望月歩くん。涙の演技は演出が命じたのだろうが、そこは甘いけれど、それ以外の箇所はよかったと思う。かなり体当たりの力任せな演技でしたけれども。少年課の刑事を演じた役者さんが、けっこう渋かった。こうして見ていると演技者はみな、その場その場でのベストを尽くしているのがわかる。  つまりドラマの出来がどうあれ、演技者に非はない。  演出:村尾嘉昭。  評価:B(☆☆☆☆)    第八話。「遥かなる我が家」  火災です。雑居ビルの火災。焼死体が10体。中に不自然な死体があった。ドラマはここから二転三転する。ロープの痕、そして頭の傷が何によるものか。火災現場で小規模のバックドラフト現象が起きたこと。あと、法医学の遺体解剖において遺体の身元を調べるのにDNA鑑定が万能でないこと。もっとも頼りになるのが、歯の治療記録からの遺体識別。人の歯は誰一人として同じ歯をもった人間は存在しない。誰もみな少なからず歯科の治療を受けており、その治療記録を調べれば、本人かどうかはてきめんに識別できる。こんなことは、実は半世紀も前から明白なことだったことを私も知っているが、未だにコンピュータによるデータベース化すらされていない。怠慢というほかに言いようがない。これは法医学の今後の課題。目立たぬようになっているが、このドラマが問題提起した、社会的にも、非常に重要なメッセージと言える。    三澄ミコトが一家心中事件の生き残りであること。弁護士である義母(薬師丸ひろ子)は、見るに見かねてミコトを引き取った。ミコトが法医学者になったのもおそらくその生い立ちが深い影を落としているのだ。  彼女も引きずっているのだ。答えの出ない問題を。  だが、石原さとみの演技からは、そのダークな生い立ちの翳りがほとんど感じられない。そういうところ、役作りとしてどうなのか。疑問におもう。    今回は思い入れたっぷりの演出が、ある程度成功している。親子の齟齬、そして情愛がテーマになっている話ですから。伊武雅刀がゲストとして、重厚な演技で存在感を発揮している。キーパーソンのやくざ者を勘当した父親を演ずる、木場勝己の眼がよかった。厳格な父親のやさしさを垣間見せる場面など、胸に沁みた。彼、むかし「新藤兼人が読む 正岡子規の病牀六尺」で正岡子規を好演したことを、個人的に記憶している。  今期、木場勝己は「anone」でも鍵となる、アノネさん(田中裕子)の逝去した夫で、瑛太とともに贋札作りをはじめた張本人を好演。それはともかく、今回の話、ミッキー・カーチスが年輪を感じさせるごみ屋敷のヤシキさんを演じて、いぶし銀の存在感。  ところで、冒頭神倉さんとヤシキさんが指していた将棋。ヤシキさんの戦法。角道を止めずに三間に飛車を振る早石田と呼ばれる、かつて升田幸三九段が指した升田式石田流の現代版ですね。この将棋ね、応接をちょっとでも誤ると超急戦の将棋になり、粘る綾もなく攻め潰される怖い戦法。よほど気をつけてかからないと一刀両断にされます。ただの一手も応接を誤まることができない。下手をすれば50手ともたずに投了へ追い込まれる。神倉さん、ご存じないようだけれど、笑って指せる将棋ではありません。  ゲスト以外ではいつもながら、刑事を演ずる大倉孝二の軽さが面白い存在感で印象的。脇を固めている役者がみな持ち味を発揮している。    蛇足の台詞があった。  「親父、いまごろ何してるかなあ。故郷の餅は旨いんだよなあ」。  こういう視聴者の感情に訴えるような情緒的な演出や台詞がなくても、十分感動的なドラマになっています。この台詞、余計であり、不自然です。  「これでもか」の追い討ちは要らない。  演出:塚原あゆ子。  Bプラス(☆☆☆☆)    第九話。「敵の姿」  かの雑居ビルの、立ち入り禁止になっている隣ビルから、例の口中に「金魚の痕」のある遺体が見つかった。橘芹菜さん。胃の中から腐った練り製品のようなもの(ソーセージかなにか)が見つかった。  死後48時間くらいで、ここまで食品が腐ることは有り得ない。そこは火事の前、誰でも自由に出入りが可能だった。つまり、8年もの間、目立つことをせずにいた犯人が自己顕示欲を満たすため、目立つ場所に置いたと思われる。中堂の恋人と同じ殺され方の遺体。凶悪な連続殺人犯であることが、ここで初めて明らかになった。犯人は、被害者の口封じに人の拳ほどの大きさのカラーボールを彼らの口に押し込み、敢えて殺しの手段を、手を変え品を変えて行っている。仏の胃の中にあったのはボツリヌス菌を繁殖させた食品。食中毒を起こす菌として有名な、生物兵器にも使われる猛毒である。直接の死因はこれなのだろうか。  中堂の恋人は「こうじやゆき」の名で「茶色い小鳥」の絵本を出したばかりの絵本作家。次にピンクのカバの表紙の絵本を出す予定だったが、この表紙となる絵は何故か紛失していた。絵を持っているのは犯人以外に有り得ない。  こうじやゆき(糀谷夕希子のペンネーム)の「茶色い小鳥」。理窟でストーリィを進めない、その感性の豊かさ。彼女の絵本がいかに面白いものかを如実に表している。彼女の将来を奪った殺人犯は、彼女のアーティスティックな可能性をすべて無に帰させてしまったわけで、その凶悪性、その罪深さは単なる殺人とは異なり、憎んであまりある行為ではないだろうか。  糀谷夕希子(橋本真実)の遺体は8年前、スクラップ置き場に遺棄されていた。遺体の解剖を行ったのは中堂自身。彼女の両親は、犯人を彼だと決めつけ、命日が来る度に「裁きを受けろ」という脅迫めいた手紙を中堂に送りつづけていた。  死体遺棄の現場の雑居ビル。中堂は三澄と手掛かりを探している。宍戸は雑居ビルの近くに暮らしている。彼のアパートに連れ込まれた女の子の話をする宍戸行きつけのバーのバーテンダー。殺風景なアパートだったというが、その女の子、忽然と消えてしまったという。  大崎めぐみ。それが彼女の名前。  宍戸と殺人犯の関連性は。  橘芹菜さんの死体遺棄現場。数匹の蟻が死んでいた。何故蟻が死んだのか。例のご遺体を死に追いやったのはボツリヌス菌ではない。宍戸が六郎を嗤った。ABCDEFG。アルファベット。UDIラボで調査の途上、六郎が妙なことを言い出した。蟻から蟻酸が検出されたが、この蟻はクロナガアリであり蟻酸を出さない種。なら、何故蟻酸が検出されたのか。  死因はフォルマリン(ホルマリンの正しい発音)? フォルマリンで殺されたとしても、遺体解剖のときに遺体の保存に使われるのもフォルマリンであって、事件に使われたものと同一の成分では遺体から検出することは不可能。  盲点だった。  そして胃の中は無酸素状態になっており、ボツリヌス菌繁殖に絶好の環境となる。うまく犯人に欺かれた。これはボツリヌス菌に見せかけたフォルマリンによる殺人。そして、六郎が人から(週刊ジャーナル)もらったという雑誌の切り抜きその他のなかに、あの糀谷夕希子の「ピンクのカバ」の絵があった。  中堂が色めき立ち、六郎に詰め寄った。おい、誰にこれをもらった? 糀谷夕希子はこの絵を持ったまま消えた。こいつを持っているのは殺人犯だけだ!  宍戸の供述から浮かび上がった容疑者は、先日の雑居ビル火災の唯一人の生存者であった。高瀬文人。高瀬不動産は火災の雑居ビルの隣のビルの持ち主。中堂が犯人をどうするのか。彼は殺人犯を殺す気でいる。その頃、高瀬は自宅の庭で一連の事件の証拠となるものをすべて燃やし終え、大崎めぐみさんの遺体を切り刻み酸で溶かして、血まみれのまま警察に出頭していた。「殺されそうなので、保護してほしいんですけど」。    思わずストーリィをすべて書いてしまった。戦慄の第九話。やっと物語が本編に入った。恐るべき26件の殺人事件の全貌はまだ明らかにならない。未だ前例のない凶悪性。いったい殺人犯の目的は何なのか。いちばんこのドラマの制作班が作りたかったであろう本編だけに、力のこもった尋常でない迫真性を感じた。この話は情に流されていない。それゆえ、登場人物たちの「事件の真実を掘りあてた、その瞬間」の当惑と衝撃を、視聴者、つまり私自身も共有することができた。私以外の視聴者も、おそらく同じような感慨を抱いたのではないだろうか。少なくとも現代がもつ言い知れない不条理とでも呼ぶべきものの正体が、おぼろげに見えてきたことは確かだ。確かに、真相はすべて明らかになっていないが、その巨大などす黒い「影」は、却ってはっきりしない方が、より衝撃的に感じられる。  何だろう。ひとりの人間が生み出す「心の闇」。現代の怪奇とは、怪物とは人間の心が生み出すものに他ならないことを示している。    演技者について。  生前の糀谷夕希子を演じた女優さん(橋本真実)がよかった。夕希子がいかに人間的魅力にあふれた、おちゃめでチャーミングな女性だったかを、演出が強調するのは意味のあることだと思う。彼女の演技が非常に印象的だったことを、ここに記しておく。  演出:竹村謙太郎。  評価:Aマイナス(☆☆☆☆☆)    第十話。「旅の終わり」  橘さんは勝手に死にました。アパートの内見中に突然苦しみだして死にました。殺人犯に問われるのを恐れ、フォルマリンを点滴し、スーツケースに隠しました。26人死んでいるが、殺害自供は1件もなし。宍戸は殺人を突き止めていながら見て見ぬふりをし、放置した。裁判にあたって、検事から言われたことは、鑑定書からボツリヌス菌の記述をすべて削除するようにという、たっての要請。高瀬を有罪にするためのテクニックだ。  嘘の鑑定書を出せと言うのか。さもないとUDIラボへの補助金を打ち切る。ほとんど脅迫である。  司法解剖が廻ってこなくなったら、UDIラボはつぶれる。  六郎が週刊ジャーナルと通じていたことがばれた。六郎が通じていたお陰で高瀬は宍戸を通し、ボツリヌス菌の情報を知り、自ら殺人罪を免れる手段とすることが出来た。中堂も三澄にボツリヌス菌の記述を削除した鑑定書提出を要請。どうすればいい。  三澄ミコトのアイデンティティはどこにある? 彼女の存在意義とは何? あなたの小さなプライドに眼をつむれ?  翌朝三澄の机から、事実を記した方の鑑定書が消えていた。神倉所長(松重豊)が検察に持っていったのだ。  所長、男になった。闘うUDI。所長自らラボを潰してしまうかもと、三澄と東海林に謝罪する所長。だが、そんな所長を責める者はUDIラボには一人もいない。  中堂は葬儀屋に明日人が死ぬからよろしくと言った。宍戸理一(北村有起哉)を殺すのだ。奴の居場所に押し掛け強引に液体を注射。テトロドトキシン。言わずと知れたフグの毒だ。宍戸は証拠のカラーボールを持っていたが硫酸漬けにされ、もう指紋はとれない。解毒剤を飲んだ宍戸(?)。そこへ三澄と六郎が駆けつけた。  何を飲ませたの? テトロドトキシンの解毒剤など存在しない。そうだ。注射はただの麻酔。てめえが飲んだものが本物の毒だ。  救急車! 救急車!  これエチレングリコールじゃ? 中堂さん、あなたが人殺しになるのなんて見たくない。ひとりの人間として。お願いです。中堂が黙って六郎に手渡したアンプル。それは解毒剤だった。糀谷夕希子の父がテネシーに帰国する。彼女の遺体はアメリカへ運び、埋葬。東海林が呟いた。つくづく土葬の国だなあ。え?  ちょっと待て。土葬? じゃあ証拠、残っているはずです? 糀谷さんの再解剖。外務省経由で運ばれたご遺体はUDIラボへ。8年前は存在しなかった検出キットによって、糀谷夕希子さんの口中から被告人のDNAが検出された。  その後の被告人の自白を演出として安易だという指摘を誰かがしていたが、私はそうは思わない。26人殺した人間の異常心理など、誰にも理解できないはずである。それとも、演出を安易だと指摘した人物は、被告人の心理が理解できるのか。犯罪心理学で簡単に説明のつく案件か、これは? 裁判の場で誇らしげに殺人を行ったことを、絶叫したところで、私は別に不思議とは思わない。彼は精神異常者なのだから、健常者にその内面を簡単に把握できるわけがないのだ。    被告人の犯行時の精神状態を鑑み、情状酌量の余地があるのか、ないのか。そんなことを問題にするより大切なことがあります。それは、この事件が26名もの尊い命を奪った凶悪な殺人事件であること。未だ前例のない、前代未聞の大事件であることです。  こんな事件に情状酌量なんてことを論じていたら、日本の法秩序そのものが揺らぎます。今後この事件の模倣犯が現れないとも限らないのです。よってこの種の凶悪犯罪には日本における最も重い罰を課するべき。さもないと、今後の日本が無法地帯になってしまわないとも限りません。    この最終回。ある程度突き放した演出が出来ていた。  最後に。26人の将来のあるうら若き女性を殺してしまう殺人鬼を演じた役者(尾上寛之)。気づきにくいけれど、狂気をちらつかせたその演じぶりは見事だと思う。それを付け加えておく。  演出:塚原あゆ子。  評価:Aマイナス(☆☆☆☆☆) ・・・
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